ワイド版11巻

 

■p.56 ラジシチェフ

1791年1月、光太夫とラックスマンがトボリスクで会ったラジシチェフの、エカテリーナ2世の勘気に触れた著書はおそらく「ペテルブルグからモスクワへの旅」(1790)であろう。彼は結局「風雲児たち」に書かれているような悲惨な最期を迎えるが、彼の思想はデカブリスト(十二月党)たちに受け継がれていき、1825年のデカブリストの乱が失敗に終わったあともさらに帝政ロシアを揺さぶっていく。

アレクサンドル2世によって農奴解放令が出されたのは1861年のことである。

 

■p.94 海国兵談完成

東北大学の貴重書コレクションに海国兵談の画像が数点収められており、「千部施行」のハンコも見ることができる。

 

■p.156 ペズボロトコは何をしているのだ

山下恒夫「大黒屋光太夫」(岩波新書879)によると、p.157のように浄瑠璃本の余白に書かれたペズボロトコへの悪態は以下のようなもの。

サテサテ、グラフ(伯爵)ペズボロトコワ、ニガニガシイグラフ・ペズボロトコジャ。コノクニ(帝都)エマイリテ、コノツキニテ、ナナツキニナリモウシソロ。ソレニ、グラフ・ペズボロトコメワ、天下様(エカテリーナ二世)エ、トウシモウサズソロ。〔以下略)

えらい言われようでペズボロトコも気の毒だが、光太夫も200年後までこんな落書きが残るとは思っていなかっただろう。

 

■p.202 光太夫一行、日本へ向け出港

アダム・キリロヴィチ・ラックスマン(1766-1803?)はキリル・ラックスマンの次男。父は60近くまで生きたが、アダムは40前後で死亡しておりけっこう短命。木崎良平「光太夫とラクスマン」によると、この出発時は給与1,500ルーヴリの陸軍中尉だったが、帰国後八等文官(少佐相当)に昇進している。北槎聞略にあるロシアの軍人データによると、中尉は俸銀300枚なので何となく単純計算で銀1枚=5ルーブリと考えてみる。北槎聞略には軍人の階位しか書いてないのでこれが文官ではなく陸軍少佐になったと仮に考えるなら俸給は年に銀450枚、中尉の1.5倍である。

「光太夫とラクスマン」によれば、この一行の渡航費用は23,717ルーブリ。アダムの昇進前の給料16年分。読んでるときは単純に1ルーブリ=1万円ぐらいの感覚で読んでいたが、日本円に直すと実際にはどのくらいだろう。

ものすごくどうでもいいことだが、この「光太夫とラクスマン」(初版)のどこかに一ヶ所だけ「ラスクマン」という誤植があったのだがどのページかメモったファイルをうっかり消してしまい二度と見つからなくなってしまった。なんかおいしそうで好きだったのにな、ラスクマン。

 

■p.251 ラックスマン上陸

アダム・ラックスマンは、父キリルからの中川淳庵・桂川甫周宛ての書簡を所持していた。幕府の役人に私信扱いで渡したそうなのだが、本人達の手に〔中川淳庵はもう死んでるから無理だけど…)渡ったのだろうか?