ワイド版12巻

 

■p.44 ラックスマン家の紋章

岩波文庫「北槎聞略」の註によると、右側の三本の日本刀は日本、左上段の双頭の鷲はロシア、左下段の獅子はフィンランドへの貢献をあらわしているとのこと。

 

■p.62 薬草園の二人

木崎良平「光太夫とラクスマン」によると、光太夫は天文方の間重富、鷹見泉石、渡辺崋山、国学者の伴信友らと交渉があった。間重富は、レザーノフから贈られた「魯西亜本領全図」を長崎通詞が訳したものを、「崎人の訳疑ふところ多し」として光太夫を暦局に呼び、改訳を手伝ってもらったという。

山下恒夫「大黒屋光太夫」(岩波新書879)によると、光太夫は薬草園に住むようになってからすぐ太ってしまい、持ち帰ったロシア服が着られなくなってしまったらしい。

 

■p.72 おらんだ正月

一角の掛け軸が目を引くが、当時の蘭方医学ではイッカクの角は「ウニコウル」(Lat. uni + cornus)と呼ばれ解熱・解毒の薬効があるとされ、高価な薬品だった。こちらのサイトに詳しい考察があって読みごたえがある。

6/23/04のCX「トリビアの泉」によると、イッカクの角は実は雄の左の歯で、一年を越える頃から皮膚を突き破ってねじれながら伸びていき、身体の2/3ほどの長さにもなるという。

 

■p.103 学問吟味

浜田義一郎「大田南畝」(吉川弘文館 人物叢書)によると、46歳の大田南畝は当時若者に混じって試験を受ける浮きまくった自分を「同学の少年俊秀多シ、嘲ル莫レ斑白経ヲ解するコト難キヲ」とか漢詩を詠んでいる。んで御目見得以下の部で首席。なんかイヤミだ。

 

■p.106 大田家家訓

上記同書「大田南畝」に南畝の父の墓碑銘が出ており、「早寝晏起」の字句がある。

 

■p.120 高橋至時と間重富

森銑三「おらんだ正月」(岩波文庫)に、高橋至時の大坂時代の貧乏エピソードが収録されている。高橋家の庭には大きな柿の木があって、その実が副収入となっていたため、至時は天体観測をするかたわら柿泥棒から柿を守らなければならなかったのだが、ある日妻が勝手に大事な柿の木を切ってしまった。至時が驚いて理由を聞くと、妻は「大事な柿の木かも知れませんがあなたの学問の妨げになるので切りました」と答えた。至時は妻を叱らず、かえって妻に感謝して学問に打ち込みましたという少々出来すぎの話である。

間重富は町人だが至時とは対照的に大金持ちで、質蔵を15棟に増やしたので「十五楼主人」と名乗っていたらしい。

高橋至時の号は東岡、間重富の号は長涯、ちなみに伊能忠敬の号は東河。

 

■p.154 伊能忠敬の通勤路

伊能忠敬が歩測の練習をした、深川から浅草までの通勤ルートの地図がある。

LINK: 伊能忠敬歩測練習の道 今昔対照  深川黒江町〜浅草司天台

現代の地図と比較できて、見てるだけで楽しい。

 

■p.245 遠山左衛門尉、レザーノフを追っ払う

このとき末席にいた大田蜀山人は、長崎から息子にレザーノフと握手したことを自慢する手紙を書き送っている。

森銑三「おらんだ正月」(岩波文庫)によると、この年、最上徳内は再び蝦夷へ渡り(8回目)、松前で越冬して翌年遠山左衛門尉〔上司だったらしい)を案内して西蝦夷を宗谷まで旅行している。遠山は冬の間髭を剃っていなかった徳内を戯れに「最上髭将軍」と呼んだという。また、徳内は蝦夷でのアイヌ生活になじみまくり、ごはんに鯨油をかけて食ったりして周囲を驚かせたそうだ。そんなワイルドな徳内さんもちょっと見てみたかった。