ワイド版13巻
■p.156 吉田長俶とオランダ内科
森銑三「おらんだ正月」(岩波文庫)によると、桂川甫周の勧めで宇田川玄随が翻訳したゴルテルの「内科撰要」("Gezuiverde Geneeskonst of Kort Onderwys der Meeste Inwendige Ziekten", Johanes de Gorter,1744)を読んで感動した吉田長俶は桂川甫周に入門したとのこと。
長崎大学薬学部サイトの「薬学史」のページは非常に読みごたえがあるが、ここの「薬学史年表」によると、10年がかりの大事業だった「内科撰要」の翻訳が完成したのは1810年で、原著の発行から66年も経ってしまっていることになる…。
■p.250 鳴滝塾の塾生レポート
フレイザーの「金枝篇」からの孫引きで恐縮だが、シーボルトの本にあるという「ミカド」についての記述を引用する。「なんか違う」という意味では5巻のベニョヴスキーの「将軍瓜守」とあんまり変わらないが、鳴滝塾の塾生のレポートにそんなことが書いてあったのだろうか、それともフレイザーがなんか勘違いしてるんだろうか。
この類に属する君主の典型が、日本の霊的な皇帝「ミカド」もしくは「ダイリ」である。これは、神々や人間を含んだ全宇宙を支配する、太陽の女神の化身である。一年に一度、すべての神々はこの皇帝に表敬訪問し、その宮廷で一ヶ月を費やす。この一ヶ月は「神無し」という意味の名で呼ばれ[もちろん神無月のことである]、どの寺院にも神々は不在と考えられるので、誰も寺院[神社]に詣でることはない。
Manners and Customs of the Japanese in the Nineteenth Century: From Dutch Visitors to Japan, and the German of Dr. Ph. Fr. Von Siebold, London,1841
(という本にそんなことが 書いてあるらしい )
それでも、1巻の註に書いたケンペルの何だか不潔なミカドよりはずいぶんマシになってはいるのだが。
■p.267 最上徳内、シーボルトに会う
島谷良吉「最上徳内」(吉川弘文館人物叢書)によると、それまで2回長崎屋にシーボルトを訪ねて会えなかった最上徳内は1826年3月10日(陰暦4月16日)、三度目の正直で彼に面会することができた。この際、シーボルトは徳内と共にアイヌ語辞典の編纂を行っているが、時間がなくなり途中までしか作成できなかった。この辞典の編纂作業にはシーボルトと徳内だけでなく助手やオランダ商館書記など他の協力者も参加しているのだが、シーボルトは「最上徳内著」としてヨーロッパに紹介した。