ワイド版14巻
■ p.23 近藤重蔵えらいの像
先日、北区滝野川の正受院に近藤重蔵の石像があるというので見に行ってきた。
裏に建っている北区教育委員会の説明プレートによると、この石像の原図は谷文晁が描いたものだというのだが… ずいぶんと素朴でかわいらしい石像だった。ちなみに北大が所蔵する石像の画はこんな感じ。
大成建設サイトにあるこのコラムによると、近藤重蔵は目黒の別邸に「新富士」と呼ばれた富士塚を築いたというので、「又山に窟を穿ち、己が甲冑の像など置きたるなど伝聞せしが・・・」(甲子夜話)というのは目黒の話なのではないかと思うのだが、石像のそばの説明文では1822年から重蔵がこの寺の隣に「滝野川文庫」という書斎を設けて住んだのでその記念に石像を建てた、とある。ということは、重蔵の石像は2つあったのだろうか?
正受院は現在では「赤ちゃん寺」と呼ばれ、赤ちゃん供養のお寺になっているため、ごちゃまんと置かれた供物のぬいぐるみやお菓子の山のかたわらで小さな(全長50センチぐらいだろうか)重蔵がひっそりと佇んでいる様子は何だか不思議に寂しいおかしみがあった。地面にじかに置かれているため斜めに傾き、囲いもないので自転車やバイクでうっかり引っかけてしまいそうな感じで、顔の部分が大きく欠けているのも誰かがうっかりやっちゃったのではないかと思われる。いくら重蔵でも少々かわいそうな気がした。
■p.51 高橋景保獄死
「史話日本の歴史22 西洋への窓」(作品社)におさめられている高橋シン(石偏に眞)一氏の「シーボルト」によると、内閣文庫〔現在は国立公文書館に所蔵)に「蛮蕪子」という本があり、景保の一件が記録されているとのこと。
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簿冊データ詳細
請求番号:166−0189
書名:蛮蕪子
数量:1 冊
書誌事項: 写本 明治
関連事項:高橋作左衛門一件。シーボルト事件の顛末を高橋景保の逮捕と判決を中心に記録。文政12年(1829)2月16日獄中で病死するが、死骸は塩漬けにされて判決まで保存された。書名は景保が「蛮無」と号したことによる。
この本には、挿絵入りで景保の塩漬けの模様が記録されているそうで、見たいような見たくないような。竹筒を使って塩を押し込むのではなく、ブツ切りにして甕に漬け込んだらしいのだが〔以下略)。
↑資料出てきたので訂正。氏家幹人「大江戸残酷物語」(洋泉社)にこの「蛮蕪子」の抜粋が収録されていました。やはり竹筒方式のようです。内容はものすごく詳しく書かれてますがあまりにもアレなので略。読みたい人は上記の本を探してください。
また、同書によると砂糖漬けの件は上原久氏の「高橋景保の研究」(1977年刊)に書かれており、元ネタは「甲子夜話続編」巻三十六らしいのだが、その前のほうを読むと「笑い話の本を手に入れた」とあり、前後には笑い話が収録されていること、また話の内容も「天文道=天門冬(ユリ科の植物の根で砂糖漬けにして滋養強壮薬に用いる)」の駄洒落であることから、これは実話ではなく笑い話の一部ではないかとのこと。
■p.69 土生玄碵改易、財産没収
土生玄碵は眼科医として高名であり、目薬がバカ売れして当時大金持ちだった。このサイトによると、彼は財産の一部を油樽に入れて深川に沈めておき、それを使って赦免工作をしたらしい。葵の紋服をシーボルトに渡して死なずに済んだというと、確かに裏にそんな事情でもありそうな気はする。
■p.153 伊東玄朴
どうでもいいことだが、森銑三「おらんだ正月」〔岩波文庫)だと玄朴は農家の出身で、士族の養子に入ったとなっている。同書によると若い頃は家に昔からの借金もあって非常に貧しく、オランダ語を教えてくれていた通詞の猪俣伝右衛門には大分世話になったらしい。猪俣家にはオランダ語を習いにきた弟子たちが大勢いて、玄朴は当時の通称が勘助というので「馬鹿勘」と呼ばれ馬鹿にされていたとのこと。やっぱり馬鹿にされやすい人ではあったようだ。ただし、師匠の猪俣伝右衛門は玄朴を気に入っていて、臨終の時玄朴に自分の娘を嫁にもらってほしいと言い、遺言に従って玄朴は伝右衛門の娘を妻にしたという。
そう思って見直すと、才の足りない分を努力と人間関係で補っていたであろう玄朴は、孤独な天才であった長英とはどこまでも対照的であり、お互いにさぞ気にくわなかっただろうと思われる。
■p.208 最上徳内死亡
文京区の蓮光寺に最上徳内の墓があるというので行ってみた。写真左、アクリルのケースの中の小さい墓石が当時のもので、徳内夫婦のもの。右の大きいのは明治44年に正五位を追贈されたときのものとのこと。
晩年はけっこう出世してたはずだが、ずいぶんと控えめな小さな墓だった。