ワイド版9巻
■p.22 中川淳庵の死
上村瑛「大江戸文人戒名考」〔原書房)によると、
過去帳に(淳庵の)戒名、歿年は明記されているが、現在墓碑はなくなっている。淳庵の墓は、台風の倒木で破損し、すぐ復元したのだが、地下鉄工事で、文京区金富町から現在の処へ寺を移建する時、輸送中のトラック上でバラバラに墓石は崩れ、移転の混乱や請負業者の不注意から、淳庵の墓を見失ってしまったという話である。
とのこと。ただでさえ幸薄い感じなのに、気の毒すぎる。
■p.200 土山宗次郎処刑
「風雲児たち」では、平秩東作と土山宗次郎が親しかったことは描かれているが、実はこのグループに大田南畝もおり、何度も家に招かれたり一緒に飲んだりしている。上村瑛「大江戸文人戒名考」〔原書房)によると、大田南畝と土山宗次郎は一緒に遊女を身請けしていたりしてかなり親しかった模様。
浜田義一郎「大田南畝」(吉川弘文館人物叢書)によると、大田南畝が一時期文壇から離れた原因は、親しく付き合っていた土山が処刑されたことにより立場がマズくなったからという説と、「風雲児たち」にあるように定信の改革をからかう狂歌の作者と疑われたことからであるという説とがあるが、筆禍説は年代や資料の信憑性の点から少々難があるとのことで、浜田氏はこの事件の頃出版された狂歌集から平秩東作の蝦夷行の歌が急遽削除されていることから、南畝の断筆は土山の処刑が原因であるという説をとっている。
■p.246 カムチャッカの光太夫一行
「風雲児たち」には書いてないが、ここで光太夫たちは Jean-Baptiste-Barthelemy Lesseps (1766-1834) に会っている。このレセップスはスエズ運河で有名なFerdinand de Lesseps (1805-1894) の伯父。「レセップスの旅行日記」 ("Journal Historique du voyage de M.de Lesseps" )に光太夫のことが書かれている。山下恒夫「大黒屋光太夫」(岩波新書879)にその一部が引用されているが、光太夫はヘビースモーカーで、かなり不作法だったらしい。(それ以外の点については、レセップスは光太夫をほめちぎっている)
レセップスはここで探検隊長ラペルーズ(Jean Francois de Galaup de La Perause, 1741-1788)と別れているが、ラペルーズ艦隊はその後行方不明になり、バヌアツ付近で難破してしまっていたことが判明したのは1828年だったという。レセップスは運がよかったね。