その他

 

■ a lucky adventurer

Yahoo! 和英辞書で検索すると、「風雲児」は "a lucky adventurer; a spirited fellow who seizes every opportunity and cuts a conspicuous figure" という訳があてられている。

 

■ la méridienne de l'histoire

1790年、フランス革命政府は度量衡委員会を設け、度量衡の統一に向けて動き出した。例の悪評高い改暦もこの動きの中で行われている。また、この年、ラジシチェフは農奴制を批判する「ペテルブルグからモスクワへの旅」を書いている。

1791年、度量衡委員会は「北極と赤道を結ぶ子午線の弧の長さの一千万分の一に相当する長さ」を長さの基本単位にすると決定した。

1792年、子午線の長さを計測するため、ドランブルとメシェンが二手に分かれてダンケルクからバルセロナまでの測量の旅に出発した。革命直後の不安定な政情の中、王党派と間違われたり事故で大怪我をしたり筆舌に尽くせぬ苦難の旅だったらしい。同じ年、大黒屋光太夫がアダム・ラックスマンに伴われて帰国し、林子平は「海国兵談」の版木を焼かれている。

1794年、革命政府の度量衡委員会主要メンバーだった「近代化学の父」ラヴォアジェは前歴が徴税請負人であったという理由でギロチンにかけられた。裁判官は「革命は科学者を必要としない」と言いきったそうである。

1795年、伊能忠敬は51歳で高橋至時の弟子となった。

1798年、ドランブルとメシェンの測量の旅は出発してから6年後のこの年ようやく終わり、メートル原器が作成された。この年、日本では近藤重蔵と最上徳内が択捉を探検し「大日本恵登呂府」碑をぶっ立てている。

1800年、伊能忠敬は55歳で最初の測量の旅に出発した。

1802年、フランス人たちに遅れること4年で伊能忠敬は子午線一度の長さを28.2里(110,749m)と算出した。現在の測定値は110,920m だそうなので、誤差0.15%ぐらいであろうか。経度はもう少し不正確で、そのため伊能図は北海道がやや東に、九州がやや西にずれて描かれているらしい。

1804年、高橋至時が改暦の激務から病没。この年、最上徳内は「度量衡説統」を須原屋から刊行した。序文は山本北山、桂川甫周が後跋を書いている。フランスではナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝として即位し、革命政府は完全に消滅した。